1.射日の戦いの由来
アニメ魔道祖師で、射日(しゃじつ shè rì)の由来となった「五帝の時代は10の太陽が出て民は苦しんだ。英雄羿(げい)は9の太陽を射った」が語られる。その逸話を中国文学でたどってみる。古代中国に興味のある人向けである。射日の征戦は、英語では「The Sunshot Campaign」と訳されている。campaign:軍事作戦の意。
また、中国の名前(名,あざな,号)についてもまとめてみた。
2.五帝・射日伝説
五帝とは、黄帝・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)をさす。かの有名な司馬遷の『史記』の第一巻は、この五帝について述べられた「五帝本紀」から始まる。
この<複数ある太陽を射てひとつにした>という創世神話は、世界中でみられており、日本でも物語や神事でたどることができる。
中国でも様々な部族で同類の物語があるようだが、主なものとしては、「後羿射日」「羿射九日」と呼ばれる中国古代神話伝説である。
ここでは、羿が太陽を射た物語や十の太陽の話についての、中国での出典についてまとめてみた。
3.羿が太陽を射た物語
まず、羿と太陽の物語は『淮南子(えなんじ) 巻八 本経訓 五』にある。
『淮南子』二十一篇は、前漢の武帝のころ、准南国の王であった劉安(高祖の孫)が編纂させた書である。当時における学術思想の集成であり、各種の論説集であり、一種の百科全書的著作であり、道家文献でもある。類似の書として秦の呂不韋による『呂氏春秋』がある。
淮南とは、淮河の南という意味で、今の安徽省北部にあたる。この地は戦国時代には楚の支配下にあった。
『准南子 巻八 本経訓 五』
逮至堯之時,十日竝出。 焦禾稼,殺草木,而民無所食。 猰貐、鑿歯、九嬰、大風、封豖希、修蛇、皆為民害。
堯乃使羿誅鑿歯于疇華之野,殺九嬰於凶水之上,繳大風於青丘之澤,上射十日、而下殺猰貐,断修蛇於洞庭,禽封豖希於桑林。
萬民皆喜,置堯以為天子。
堯の時になって、十個の太陽が並び出て、穀物を焼き、草木を枯らせ、そのために民は食べ物がなくなり、猰貐・鑿歯・九嬰・大風・封豖希・修蛇が民に害を加えた。
そこで堯は羿(げい:弓の名人)に命じて、鑿歯を疇華の野に誅し、九嬰を凶水のほとりで殺し、大風を青丘の沢に射殺し、上は十日を射落とし、下は猰貐を殺し、修蛇を洞庭湖で斬り、封豖希を桑林の地でとりこにした。
かくて、万民はみな喜び、堯を立てて天子とした。猰貐(獣名)、鑿歯(獣名)、九嬰(水火の怪)、大風(風の神)、封豖希(大いのしし)、修蛇(大蛇)。
疇華の野(南方の地名)、凶水(北狄の川名)、青丘(東方の地名)。楠山春樹「新釈漢文大系54 准南子 上」1979 明治書院
4.禹と治水
そして続いて、舜の時に洪水がおこり、禹に命じて治水をおこなわせ成功し、舜が聖王と称されたとある。禹が治水にかかった年月は13年で自分の肉体と精神の限りを尽くして奮闘した。そもそも「禹」の字の原型は、竜が二匹いる形で水神を表わしたものだそうだ。
禹と言えば、座学で魏無羨が藍啓仁に語った「大禹の治水」(陳情令4話, アニメ3話, 原作小説14章)が思いだされる。13年と言えば、魏無羨復活までの年月でもある。(陳情令では16年)
物語はこのあたりをモチーフとしているのだろうか。
5.むかしの中国人の名前について
すこし話が寄り道するが、禹についての本の中で、中国の名前について詳しく記述されていたのがわかりやすかったのであげておく。
その人の生涯の時・所・位によって呼び方が変わります。
家族を示す「姓」または「氏」があり、帝舜や禹王、周の文王武帝や秦の始皇帝の姓には「女」という文字が入り、「姓」は太古の母系社会のなごりを示すもので、「氏」は男系社会の出現とともに生まれたものかもしれません。
個人を示す「名」は成長にあわせて変化していきます。
- 本名・諱(いみな):誕生と共に付けられ、父母以外は安易には呼びません。魏無羨の場合、嬰。
- 幼児のときの呼び名:家族間や近隣の愛称として使用されるが、特別な場合以外は記録されません。阿羨、阿嬰など。
- 字(あざな):一人前になると社会的に通用する名前をつけます。無羨。
- 号・雅号:成長し技芸をみがいて自己固有の志向をもちます。それを名前にしたものが号です。書斎や草庵に名前をつけて個人名の代わりとしたり、弟子や皇帝から尊ばれて「〇〇先生」と称される場合もあります。官名や爵称も使われます。夷陵老祖。
- 諡(おくりな):死後にその生前の行為をもとに改めて命名されます。
6.羿が太陽を射った物語
この羿が太陽を射った物語は、『楚辞 天問 第三段』にも出てくる。
『楚辞 天問 第三段』
鯪魚何所
鬿堆焉處
羿焉弾日
烏焉解羽
鯪魚はどこにいるのか
鬿堆はどこにいるのか
羿はなぜ太陽を射たのか
鳥はなぜ羽根を落としたのか
そしてこの第三段につづく第四段でも、禹の治水について語られているのである。
7.十の太陽の物語
『山海経 第九 大荒東経』には、十の太陽の話が列挙されている。
それらは『荘子』『淮南子』『楚辞 離騒』『帰蔵鄭母経』『汲群竹書』などにも記されているとある。
『山海経 第九 大荒東経』
十個の太陽が順次に扶桑を登りつめ、一日に一個ずつ、扶桑の頂上から西へと運行を開始する。そして西に沈んだあとは、扶桑の下へと帰り、湯谷で水浴をして身を清め、また扶桑に登り始める。
だから世界は、常に一日一個の太陽を見ることになるが、どこかに狂いが生ずると、天に複数の太陽が出現することとなる。
最も有名なのが、堯の時代、十個の太陽が同時に出現したという話である。そしては弓の名人の羿に命じて太陽を射させ、地上の万物は救われた。
8.羿について
『山海経 第六 海外南経』には羿についての記述があり、そこの補説で羿が詳しく述べられていた。
羿は古代神話の英雄神の一人であり、先秦時代の記録や諸子百家の文章にしばし登場するが、まったく相反した二つの性格を持つ。
一つはに臣下として仕えた弓の名人で有り、その弓術によって勲功を立てたものとするもの。
もう一つは夏王朝のころの諸侯の一人で、弓の名人であったが粗暴な行為が多く、国が乱れて、ついてに臣下の寒そくに殺されたとするものである。
すなわち弓の名人ということだけを共通項として、武勲を立てて世に貢献したとも、武芸におぼれて乱暴をした悪人とも伝えられるわけである。
同じ人物を語るのでも、歴史の攻防によって、人物像が変えられてしまったのではないかとあり、弓術を笛に変えると、夷陵老祖の語られ方のようにも思えてくる。
9.十の太陽を生んだ義和
十の太陽を生んだ義和の話は『山海経 第十四 大荒南経』にある。
『山海経 第十四 大荒南経』
義和は帝俊の妻で、十の日を生んだ(十人の子を生み、それぞれに「日」という名をつけたという意味。だから十の日を生んだといった。太陽の数は十個あったからである)。
10.乱世の英雄
さて、先に挙げた『准南子(えなんじ) 巻八 本経訓 五』に話をもどす。
この『巻八 本経訓』とは、治乱得失の因をたずね、根原の道を明らかにするものとある。
本経訓での各節では、まず太古の始元的な状況を記し、次に末世の状況を述べて対比させ、太古を道の行われた世、末世を巧詐権謀の世として説いている。
この五をかいつまむと次のようなことを述べている。
『准南子 巻八 本経訓 五』
困窮を救い欠乏を満たすことが名声となり、
利を興し害を除き、乱を伐ち暴を止めれば勲功となる。
すなわち乱世の憂患に遭遇するから、賢聖の名を持つ。至徳をもって乱世に生まれた人が、徳と道を身に守り、無言のまま死んでいくことも多く、天下にその無言の尊ぶべきことを知る者はいない。
前者は、温晃や温氏を倒した英雄的な聶明玦や魏無羨をほうふつとさせる。
そして、徳と道を守った人の名前は歴史的には残らない。当時の誰かの記憶には残っているのだろうけれど。
▼陳情令19話&43話の台詞について。
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