韓国ドラマ『赤い袖先』の小説が日本語翻訳されていると知り、最期まで頑なだったドギムの心情が分かるかと読み始めた。
作者はカン・ミガン、双葉社より出版。
韓国では全2巻、日本では全3巻となっているようだ。
第1巻は淡いピンク色の衣装に蝶が飛んでいる表紙で、なんだか折り紙チックでカワイイ。
物語以外にも、登場人物紹介、時代背景、イ・サン年表、巻末には朝鮮王朝時代劇キーワードの用語解説が付いている親切設計。文字サイズも文庫本でよく見かけるサイズで読みやすい。
ドラマと異なる点や、小説内で紹介されている書籍を中心につらつら記しています。
序章
冒頭でドギムに読まれる物語はドラマと異なり、小説では『洪桂月伝』男に扮して戦へ行き英雄となる。『朴氏夫人伝』朴氏夫人はまじないをかける、が紹介された。
幼いドギムが殯宮に迷いこんだ時に臭いが描かれていたのが、小説では印象的だった。
美しい宮中書体で書かれた『仁顕王后伝』。見習い宮女の中でドギムが一番最初に読んだ朱子学の基本書『小学』。
ドギムは1952年、サンは1951年と一歳違いなのか。
幼いドギムと王(英祖)は殯宮で会うも、義烈宮の『女範』はソ尚宮経由で渡されていた。亡き義烈宮が宮中から送りだされ、ドギムが目にした「松明からこぼれ落ち地面を這う火の粉」という描写が印象的。
第一部 一章
幼いドギムとサンは、ドラマでは殯宮で会っていたが、小説ではサンの母 恵嬪ホン氏に招かれて会っており、ドギムはサンを笑わせていた。
そしてドギムが出会った宮女 ギョンヒは美しいけれどきつい性格に描かれている。
二章
以前ドギムがサンに言われた「次などない」を、次に会った時にサンに「次などない」と言い返すあたりは鮮やか。ドギムの幼い頃の夢は「自分ひとりを愛し続けてくれる夫」だったのね。
松節茶を飲んで酔っぱらっているまだ成年ではないサン。松節茶は関節痛の薬の松節酒を言い変えたものだとか。ここでサンはドギムに「服のひもを解いたらどう思う?」と詰め寄っているのだ。きゃー。
そしてドギムに芽生えた「側室の義烈宮は王を愛していたのか」という疑問。
三章
ドギムは至密内人だがドラマのような書庫ではなく、ゴミ整理係でまさにシンデレラ的。
ドギムが王妃に書写させられていたのは『朱子大全』『大学衍義補』。
チョンヨン郡主たちとの場面でドギムが用意したのは、揚げ菓子に茶食、干し柿、松の実で、韓国女子会お茶菓子が気になるところ。そしてドラマの真面目なドギムとは異なり、小説ドギムはものすごくいたずら好きだった。
『郭張両門録』は正妻と妾の泥沼の争いや、糟糠の妻を懐かしむ男など、面白みに欠けると評され。前作『夢玉麒麟伝』、『釵釧気合』の三部作。ドギムはこの種の小説の、他人のせいばかりして文句を言う姿に腹を立てており、選択をしたのは自分なのだからその責任は負うべきと考えている。そして王様(英祖)は寝所で恋愛小説を読むとあり、そんな一面があったのね。
『鄭秀貞伝』は『紅桂月伝』の亜流。紅桂はドギムのお気に入り。
『玉蕭仙』は『掃雪因窺玉蕭仙』で、妓生と両班の青年が結ばれる激情的な恋愛物語。
ギョンヒの境遇が描かれ、入宮したのちに実家が豊かとなり、妹たちは結婚して贅沢に暮らしているのだとか。
ドギムはヨンヒとポギョンを仲間に入れたことをギョンヒに問われ、「役に立たないわ。でも宮女として生きることは選択肢をなくすということ。でも仲間に入れることは私の意思で選択できることだったから」と言い、ドラマとは少しニュアンスが異なっていた。
『月下僊伝』は官吏の息子が美しい妓生に恋をして、妻やすべてを捨ててふたりで逃げ、科挙に合格し妓生と添い遂げる物語、ドギムは妻になんの罪があるのかと吐き捨てている。
四章
ウォレと再会して、ドギムは幸せだった幼い日々を思い出し涙する一面も。
『熟香伝』を借りに来るポギョンは、恋愛小説に目がない。ギョンヒは別監との仲を噂されている。
王妃がドギムに『春秋左氏伝』を諺文に直して筆写させているため、作業が大変であった。
ドギムが「鬼は恐れても、人は恐れません」と言うのが勇ましい。小説では豊山ホン氏と慶州キム氏の政治事情も描かれている。
ドンノはいつも自信満々で大胆すぎるのが長所でもあり短所でもあり。
文王の后妃(婦道につとめた大姒)には夫婦円満の徳がある。
ドギムはサンに
徐敬徳(儒学者)は黄眞伊(妓生のファン・ジニ)をいい方向に変えた。
許蘭雪軒(詩人のホ・ナンソロン)は家に寄りつかない夫(才能ある妻を遠ざける)を変えられず。
高句麗の王女平岡(ピョンガン王女)は温達(貧しかったが王女と結婚、武将に出世)を立派な男に変貌させた。
などを例にあげ、相手の徳を認め、変わろうとする人の意思こそが大切と説く。ここでドンノはドギムをサンからかばっている。
五章
サンは『三方撮要』を読む。禁書である『綱目』(資治通鑑綱目)の「爾母婢也」の件で救ったのはドンノ。ドギムが世孫に立ち向かうのを見て、妙な気分になったと言い寄るドンノ。おぃおぃ。
ギョンヒがつぶやく「まともに手に入らないなら、いっそのこと何も持たない方が幸せよね」という言葉が意味深だ。
サンからのなぞなぞには『小学』と答えるドギム。サンが最も好きな本は『大学衍義補』。
サンに一方的な所有欲をぶつけられ、ドギムの胸は高鳴っている。
サンはドギムに「朱子曰く、哲とは知っている、懿とは美しいという意味。男が外の世界でしっかりと根をはれば、その国の主になれる。ずなわち知識があれば建国することもできる」と伝える。
ドギムの兄はシクで、フビという弟もいた。サンから酒を求められ、山葡萄でお酒もどきを作るドギム。
ドギムは「夫が言う前に行動し自ら家庭を整えてこそ道理にかない、従順なだけなのは妻ではなく召使いだけ」とサンに物申す。
六章
あっけなく王(英祖)は崩御し、堤調尚宮も宮中を追われている。サンへの湯薬は山茱萸(さんしゅゆ)と鹿茸。
淑儀ムン氏は、義烈宮と先王の仲が冷えきっていた頃に寵愛された側室。その淑儀が出ていくのを見ている大妃の静かな迫力よ。大妃に捧げるのは加減清気湯。
チョンヨン郡主の内情も描かれている。
先王が義烈宮に借りを作ったのは、壬午年(1762年)のこと。
ドギムがサンを褒め殺しにすると、赤くなるサン。
ドンノは楚の宋玉が転生したような美形と言われている。が、ドギムは警戒している。楚の宋玉は文人で、中国古代四大美男のひとり。
サンが官吏から取りあげたのは『雲英伝』。大君に仕える宮女ウニョンがソンビと恋に落ち情が通うも、ばれて自決するという内容。ドギムが市場の本屋へ持って行ったのは『李聲慶伝』で男装女人もの。
七章
サンの入浴で、ドギムが目のやり場に困り、「見えもしない遠い山のほうに頭を向けて」という表現や、「夜中に書いた反省文の文章は、あの時間独特の感受性で満たされたものだ」が面白い。
ウォレが捕まるのは父親が恩全君の謀反に関わっていたからであり、ドラマの牢のウォレとドギムのやり取りの方が心に残った。
サンがドギムに弓を射る姿を見せるのが、サンは意識していないのだろうが、ドギムの「父は弓が上手く、嫁に行くなら弓術で父に勝てる男を連れてこいと脅かされたものです」の言葉を受けてなのだろうが微笑ましい。
この段階ではサンはドギムに興味はあるが、まだ小さな火花にすぎないようだ。
ドラマでは第13話/全17話あたりまで。いかにドラマで付け足されているかがわかる。
小説は各章の終わり方が良く、是非読んでほしい。
物語の好みが描かれ内容にも触れているので、韓国古典小説ガイドのようで楽しいのだ。
ドラマと小説の違い
幼いドギムとサンの出会いが異なり、ドラマでは霊廟でドギムはサンに会ったが、小説ではサンとは母 恵嬪ホン氏の手配で会い、ドギムは気難しいサンを笑わせた、というエピソードでふたりの関係は始まっている。
ドラマではサンが王になる道のりが険しかったが、小説ではドギムの手助けなくとも王になっており、サンの虎退治も、英祖の認知症も、堤調尚宮の戦隊モノちっくな要塞も、和緩翁主とのバチバチも、蟹と柿がうんたらも、ない。
ドギムは王となる手助けもしていないので、ドラマほどにはドンノはドギムをライバル視していない。
物語中の韓国古典小説も、原作小説の方が多く紹介されているが、あの『詩経 北風』のやり取りはなく、ドラマオリジナル。
ドラマではドギムが王となる世孫サンの力になっており、かなり心を通わせているが、原作小説では現段階でのサンはドギムがやたら気になる存在という位で、ドギムはそれを危険信号と捉えており、もっと緊張感のある関係なのだ。
そして最も異なるのは、ドギムのキャラクターの印象である。
ドラマのドギムは真面目で正義感が強く頑固な、学校にいれば副学級委員をしていそうな優等生な感じ。ドラマドギムの父は非業の死を遂げているが、小説ドギム父はそうではなく、ドラマドギムの方が健気な様子になっている。
一方、原作小説のドギムはとにかく宮中でもイタズラをしまくり、「自分の意思で選ぶ」という事を第一に掲げており、優秀ではあるが優等生ではなさげな人物像である。見ていた宮廷ドラマでは宮女がイタズラのしようもない厳格な世界であることが多い中、この小説では割とおめこぼしされていたようなので、そういう世界線であるのかな。
ドラマのドギムは教室の前列に座っていそうだが、小説ドギムは絶対に後列窓際に違いない。
そのせいか、小説のサンはドラマのイ・ジュノなビジュアルでも違和感がないが、小説のドギムはイ・セヨンとは少々異なった姿で脳内再生される。
そして小説ではドラマでは姿を見せなかったサンの正室である王妃が登場している。小説王妃もドギムが気になっているようで、何か察するものがあるようだ。
小説ではギョンヒがもっと詳しく描写されており、小説大妃はドラマよりもっと何を考えているのか分からない厳しさと強かさが感じられる。
第一巻のあとがきで、作者であるカン・ミガンが高校生の頃からこの作品を書き始め、8年かけて完成させたとあるのを見て驚いたのだが、しばらくすると、どこかそういう10代後半の目線が入っているような第一巻のドギムであった。なのでこの小説ドギムならば、王からの求愛も一筋縄では受けないのも割と納得がいく。
一方、ドラマのドギムを演じたのはイ・セヨンで実年齢は20代後半。そのどこか落ち着いた佇まいが、王となるまであれほど一心に助け寄り添っていたのに、なぜそこで突然に頑なになる?とちょっと違和感を感じてしまった要因な気もしている。
ドラマと小説、それぞれに味わいがあり二重に楽しめたので、ドラマ原作の翻訳小説というのは有り難いものだ。
ドラマでははしょられていた部分が中巻・下巻で描かれているらしく、ドラマでは第13話以降に展開されたあの重いテーマなので読むのも躊躇するが、案外、小説ならば大丈夫か。
下巻にある外伝が気になるところである。
▼文王の大姒について
外部サイト
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