ドラマ『狼殿下』の放映が始まった頃、最初は視聴をどうしようかと思っていたのを後押しした一つは、時代背景が「五代十国時代」との情報であった。
というのも『山河令』の時に五代十国の晋~後唐の辺りを調べており、私は何だか知らないが、史実がモデルなドラマの人物を、他のドラマにも当てはめるのが好きな性分なのである。『狼殿下』の背景で、『山河令』なあの人たちが江南で活躍しているのかしら?とか、疾冲の赤ん坊の頃を周子舒は知っているのかな?など想像するのが楽しいのだ。こういう萌えを何と呼ぶのかはよく知らないが、広い世の中にはきっと同志はいるに違いない。
狼殿下の時代は、ドラマ役名が歴史上の人物名に近くなっているので分かりやすい。オマージュなのかな?という人物もおり、そちらは文中で記している。例によってここで推測した人物がモデルである、というのではなく、こう考えたらドラマと歴史があいまって面白いな、という趣旨の記事である。これらを調べたあとで原作小説を読んでわかったが、小説ではそのまんま歴史人物名が使われていた……。
時代は五代十国の初期あたり
煬:後梁
溍:晋国のちの後唐
前朝:唐
迄貚:契丹(キタイ)のちの梁
である。
年号的には、都が襲われ屏芫公主も都落ちし、楚馗が死に、楚有禎が皇帝となったあたりなので、
朱全忠が昭帝を弑させたのが904年
昭宗の諸子たちを襲撃したのが905年
朱全忠が没したのが912年
朱裕貞が皇帝となったのが913年
史実では904年~913年頃と考えられる。
日本は平安時代の醍醐天皇の時代で、『古今和歌集』の編纂を始めた頃。
まずは煬/後梁チームから
史実と言っても歴史書の文献からになるので、皇帝以外については記述が少ない。皇帝に関しては検索すれば出てくるので、詳しく知りたい人はそちらへ。
楚馗:朱温(朱全忠)
852年生。黄巣の配下であったが唐に降り朱全忠の名をもらい、李克用と共に功を立て汴州(開封)の節度使に任ぜられた。
この唐末時代、宦官が皇帝を擁立し、その覇権争いに節度使が戦って争い、皇帝はあちこちへ流転し、誰かが勢力を伸ばすと残りが徒党を組んで押える……という攻防がなされていた。
朱温も李克用と覇権を争っていたが、この頃の李克用は勢いが振わず、朱全忠は宰相の崔胤に求められ李茂貞を包囲し唐皇帝 昭宗を迎える。その後宦官たちを殺し昭宗も洛陽へ遷させる。904年8月昭宗も殺させ、昭宗第九子を昭宣帝とし、907年には禅譲させ自らが天子となった。
904年、張皇后亡きあとは女色に溺れ、子の妻に手を出していたという節操のなさである。
第一皇子 楚有裕:郴王 朱友裕
朱温の第一子。母は不明。史実でもデキた人物だったらしく、馬射に長け寛大で兵の心も掴んでいた。とはいえ、朱友恭の誣告を受け朱温の怒りを買ったが、張皇后に助命されたというエピソードもある。
904年に楊崇本(李継徽)の謀反討伐に、朱友裕は数万の兵を率いて邠州へ向かうも、10月に急に病を得て亡くなった。その元となった楊崇本が謀反したのは、朱温が楊崇本の妻に手を出したからという……。ドラマで楚馗が殺した、というのは創作部分である。
第二皇子允王 楚有圭,:郢王 朱友珪
885年生、朱温の第二子。官妓の子であり、狡猾で智謀に富んでいた。912年病が重くなった朱元璋が朱友文に後事を託そうとするのを、妻の張氏が知り、また6月1日に朱友珪の左遷の勅命も下され我が身の危険を覚える。
6月2日に韓勍と共謀し控鶴軍の兵士も加え夜半に寝殿に迫り、朱元璋に「怪しいとにらんでいたのにもっと早く殺しておけばよかった」と言われつつ、御者の馮廷諤が腹を刺した。馮廷諤はドラマで偽詔を読みあげていた人物。
偽詔で「博王が反逆を企てた」と称し、6月5日に皇帝の位に即いた。ドラマで馬摘星が「七夕が近い」と言っていたのは史実に寄せているとは言える。
允王妃 敬楚楚:張氏、張貞娘
小説でも敬楚楚であり実在した人物の名前は用いられていない。張氏は朱温にはべり、朱友文の妻である王氏と寵を争っていたとかなんとか。ドラマ最後の方で楚敬敬が看病させられていた辺りは少しそんなテイストを入れてきたか。
敬楚楚の父の敬祥は宰相 敬翔と思われ、朱温に長らく使えた功臣であり、923年李存勗に攻め込まれ大臣たちは赦免されたものの自死した。ドラマでは第二皇子と繋がりを持たせたのは、史実で朱友珪左遷の勅命を受けたのが敬翔だったからかな?
第四皇子 勲王 楚有禎:均王 朱友貞
888年生、朱温の第三子。張皇后の息子。913年2月にクーデターを起こし朱友珪は殺され、朱友貞が皇帝となる。ドラマでは李存勗に譲っていたが、史実では916年魏州の戦いで李存勗が優位に立ち、921年李存勗の総攻撃を受け、内乱を恐れ兄弟を殺し、部下に自分を斬り殺させ、後梁は滅亡した。ドラマでは柿な四人兄弟となっていたが、朱温には実子も仮子も大勢実在している。
『十八史略 巻六 五代』で朱友貞の項目の後近くに、契丹の阿保機が記載されているのが、なんとなくドラマで人質になり親交があったのを思い出してちょっと面白かった。
楚有禎の従兄 楊厚の名前は、後梁の将軍 楊師厚に似ていなくもない。血縁関係ではないが、史実で朱友貞の即位に力を貸した人物なので縁づいたのかな。
狼殿下こと渤王 楚有炆、狼仔:博王 朱友文、康勤
朱温の仮子(養子)。渤王も博王もどちらも[bó wáng]。姿も良く学問を好み、議論や詩に優れていた。長男 朱友裕亡き後は子の中では年長であったよう。開封尹として経済を任されており、妻の王氏は朱温の寵妃でもあり、朱友文は多才多芸で朱温の覚えもよかった。
909年に朱温が西の洛陽に入り、朱友文は東京で留守を任じられていた折に、酒に溺れ政務も怠慢であったともある。ドラマで馬摘星に去られた渤王が政務はともかく、忘れようと酒に溺れていたらとちょっと重ねてみたり。
912年に朱友珪が謀反を起こし、偽の詔勅で丁昭浦を遣わし、大梁で朱友文は殺された。
また、朱全忠の仮子に朱友謙という人物がおり、朱友珪が朱全忠に取って代わった折に、李存勗に帰順している。渤王が李存勗に協力していたのは、その辺りも少し取り入れたのかな?と思わないでもない。
第36話の渤王が矢の攻撃を受けていた柏櫰大戦は、911年の柏郷の戦い(柏乡之战)と思われ、李存勗が河北の趙王 王鎔に救援を要請され後梁と戦う。この戦で後梁の精鋭部隊である龍驤軍や神捷軍は全滅し、李存勗が河北を支配し後梁に優勢となっていったのだ。
ドラマの鎮州の王戎は趙王 王鎔[wáng róng]のようで、李克用→朱温→李存勗に帰順している。姚宗主@陳情令みがあった王戎は、やはり風見鶏的な生き残りスキルの高い武将だったわ……。
韓擎は韓勍[hán qíng]かと考えた。史実で王景仁、李思安と共に指揮を取るも柏郷の戦いで敗退し、朱温は王景仁のみを処罰した。左龍虎軍の司令官であった韓勍は、朱温がいつか敗戦の責を問うのではないかと恐れ、朱友圭と結託して朱温を弑した。ドラマでは楚馗を弑する時はどうだったか覚えていないが、柏櫰大戦の前に出て来ていたのでちなんだのかな?
煬の溯暘は、後梁の洛陽か?
馬摘星の父 馬瑛[mǎ yīng]は、湖南の楚王 馬殷[mǎ yīn]がいるが、位置的に南で異なるし930年まで生きていた。
馬家軍は、後梁と晋との間に位置する魏博潘鎮の牙軍[yá]をイメージしているのかと考えた。牙兵とは潘鎮の軍隊で代々続く職業的軍士であり、節度使と私的主従関係を結んでおり、節度使を廃立する力も持つ。馬家軍の、辺境に位置し、楚馗とも溍王とも一定の距離があり、軍隊として強いというあたりが、牙軍の力関係に似ているように思われる。
宣武軍節度使 朱全忠には馬軍という牙軍もいたとある。また、906年魏博節度使 羅紹威が朱温の兵力をかり、牙軍に属する八千家を誅滅した史実もある。
溍/晋国サイド
溍王:荘宗 李存勗
885年生。朱全忠と争っていたが、のちに均王 朱有禎をくだし後唐を建てた。李存勗については『山河令の時代や晋王とは』記事でまとめたので興味があればそちらをどうぞ。
父である李克用の時代から唐王朝とは親交があり、李存勗は国名を後唐にしたほど唐贔屓だったので、唐ゆかりの馬摘星を公主として迎えた、というのはありえそうな設定ではある。前朝である唐を御旗にして、新しい国の正当性を主張するのはいずこも同じである。
ドラマ『山河令』では周子舒を追う執念深い晋王だったので、そのイメージがぬぐえずにいつ牙をむき出しにするのかと思っていたら、『狼殿下』では懐の深い王になっていて拍子抜けよ。
ドラマでは楚馗と溍王が同年代ぽくなっていたが、朱全忠が主に競ったのは李存勗の父である李克用(908年没)である。なので親子が重ねられているのかもしれない。
魏王 李炬祺:魏王 李継岌
李存勗の長男で、母は皇后。蜀が乱れ、李継岌は蜀王の王衍を討ち蜀を滅ぼす。蜀から帰る途中、李克用の仮子である李嗣源の謀反により、軍勢を率いるが大敗し、926年長安で部下に命じて自らを殺させた。
この役の宮正楠は『山河令』の四季山荘荘主 秦懐章だったのだが、笑顔としかめ面で雰囲気が変わり分からなかったよ。『風起洛陽』では天通道人だったね。
疾冲こと川王 李炬嶢:川王 李継嶢
李存勗の第五子。母は不明。李嗣源が皇帝 明宗となった後の事は分かっていない。
前朝/唐
気になるのは馬摘星の母親と父親は誰か、ということである。
馬摘星の母 屏芫公主:平原公主
長公主と言われていたので唐最後の皇帝である昭宣帝の姉妹と思われ、同じ音[píng yuán]である平原公主が候補にあがってくる。昭宣帝と同様に昭宗の何皇后を母としている。昭宗には11人の公主がいた。ナンテ調べていたら、原作小説ではそのまんま平原公主とあった……。
平原公主の夫:李継侃
平原公主の夫は李継侃で、同姓結婚が認められないので宋侃に改名している。実際には子をなした記録はないが、一応この人が馬摘星の実父モデルと考えて良いのかな?
鳳翔の節度使 李茂貞は昭宗たちを鳳翔に遷すも、朱全忠に包囲され城内の食糧が尽き、皇族たちも飢えをしのぐ日々を送っていた。
903年正月、李茂貞は身の安全を図るため仮子 李継侃に平原公主を嫁がせようとし、何皇后は同意しなかったが昭宗は応じる。
正月二十日に婚礼があげられたがわびしく、李継侃の弟達にも拝礼するという無礼なものだったそうな。
李茂貞と朱全忠は和睦して昭宗を引き渡し平原公主は残るも、その後要請を受け、2月30日には平原公主も長安に帰った。その後の動乱で平原公主の行方は記録には残っていない。
ドラマの屏芫公主は穏やかな結婚生活を楚馗により分断されていたのかと思いきや、史実の平原公主はバリバリの政略結婚で、しかも期間も短かく、その短いあたりを星摘星と川王の結婚に盛り込んだのかしら。
時代の流れを考えると、馬摘星は8歳位にしかならないので、まぁ創作ですよね。岐王 李茂貞が祖父となると覇権争いに名乗り出て来そうなので、ドラマの平原公主は帰京してから幼なじみの愛する人と結ばれた(渤王パターン)、と考えても良いし、ドラマの李継侃は良い人だった(疾冲パターン)、という展開もアリかな。
迄貚/契丹(キタイ)
耶律宝娜公主の父、迄貚王:耶律阿保機、耶律堯骨
後を継いだ迄貚王は、小説では耶律義と称されていた。
耶律阿保機は生年が872年-926年なので、年齢的にはちょっと合わない部分は大きい。梁を建国した人物。耶律阿保機の後を継いだのは耶律堯骨(902年-947年)。この頃の唐に人質を取る余裕はないのでこれらは創作と思われるが、耶律阿保機が李克用との盟約時に、雲州に骨都舎利を人質として留め置いたとあり、人質を取る事自体はなされていたようだ。
耶律阿保機の妹についてはよく分からない。
耶律阿保機は李克用と盟約を結ぶ一方で、朱温とも通じ906年には朱温の使いが贈物をもたらしているが、現実に後梁からの使者が盟約の履行を求めても実行しなかったようで、ドラマで迄貚王が中立の立場と言っていたのは実際にそうであったようだ。
907年に耶律阿保機は皇帝の位についた。ドラマの迄貚王の新王の祝いはこれをイメージしているのかもしれない。その後、耶律阿保機は李存勗と覇権を争うようになる。
史実には926年耶律阿保機が亡くなった後、果断で権謀に富んだ述律皇后が取り仕切り、耶律堯骨を任命したとある。迄貚は創作部分が多いようだ。しかし世界史を学んでいた時にも思っていたが、契丹などこの辺りの動きはどうも掴みにくいなぁ。
ドラマ視聴途中で楚馗が朱温とわかった時から、おおよその流れは分かってしまっていたので、第二皇子がいつ来るか来るかと思っており、ハッピーエンドでは終わらないことがなんとなくうかがえていた。
史実とは異なり楚有禎が溍王に譲るのならば、狼仔と摘星は狼狩山へ帰って幸せに暮らしましたとさ、でも良かった気がするが、蝶の縁で転生を待つとしましょう。
ちなみに中国の双鸭山市饶河县には摘星嶺という山がある。かなり中国北方にあるのだが、その折にこんな漢詩も見つけたので載せておく。
蘇頌(宋代)『過摘星嶺』
路无斥堠惟看日,岭近云霄可摘星。
握节偶来观国俗,汉家恩厚一方宁。
苏颂(宋代)《摘星岭》
昨日才离摸斗东,今朝又过摘星峰。
疲躯坐困千骑马,远目平看万岭松。
绝塞阻长逾百舍,畏途经历尽三冬。
出山渐识还家路,驺御人人喜动容。
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