陳情令の薛洋はカッコイィけど怖い
『陳情令』では早くから登場したのと、悪の帝王みのある温若寒にも臆することなく接して、国師「薛重亥』の末裔かと匂わせもあり、謎のカッコイィお兄さんな雰囲気のあった薛洋。
それが魏無羨復活後は、それはもう猟奇的なまでの残酷さで、第39話の義城編が終わったあとに薛洋が出てくると「薛洋、怖い~」とすっかり評価が変わっていた。
それはまるで、中学1年の時に、校内のちょっと良からぬ噂もあるけど笑うと素敵な中3のワルな薛洋先輩に淡い憧れを抱いていたのが、高校生になった頃には、その先輩は高校を中退してとてつもない事件を起こしていたのを知り、その変わりように愕然とする感じと言いましょうか。
でも、また陳情令を周回して第3話を見ると、カッコイィお兄さんに見えるこの不思議。懲りていませんね。
同じ「悪友」でも、金光瑶はさほど怖くないが、薛洋は怖い。身近にこういう人物がいたら速攻、逃げたくなる。なぜなら、金光瑶は因果応報で相手に接しており、金光瑶の上司にでもならない限り、殺意を抱かれることはあまりない。けれど薛洋は、実に自分の気分重視で意にそわなければ破壊するし、気に入られてもエライ目に遭わされる。
その歪んだ愛がひたすら怖くて、関わったが最後、という印象があるからだ。
薛洋と世間
義城編は『陳情令』では全てのエピソードは描かれていなかったので、原作小説で「常氏惨殺の理由が何か」、というくだりではドキドキしながら読んでいた。「手紙を届けてほしい」でよからぬことを想像したが、規制の厳しい国でそんな事が書かれるハズもなく、牽かれたのが小指で、その時は暁星塵ではないが「え?小指で一族惨殺?」と小指と一族の命は釣り合わない気がしていた。
が、確かに自分がその身になって考えてみると、それは理不尽極まりなく、7歳の薛洋にとっては、それは世の中に決定的に裏切られた瞬間で、小指を見る度に何かフラッシュバックするような思いがあったのかもしれない。特に学んでもいないのに陰虎符に関われるほど頭脳明晰であるだけに。そして薛洋がそんな思いから逃れるには、常氏に関わる一切のものをこの世から抹殺しないと、自分は安らげないと思ったのだろうか。そういうオールオアナッシングな思考しかできない、という段階はある気がする。
薛洋と魏無羨
薛洋と魏無羨は、共に孤児で陰虎符を操ることができる才能があり、魏無羨が受けた恩を返すのに対して、薛洋は受けた恨みはきっちり返すという対照的な面がある。そして、魏無羨は金子軒のような上っ面が大嫌いであり、薛洋は、高潔で自分が正しいと思っているのが大嫌いでもある。魏無羨は自分のことは忘れっぽいが、薛洋は番外編『悪友』で、母が売女と誹られるならば、そう言った相手の母親を売女にしてしまえばいいと言い放つ所からも、相手を同じ目に遭わせて思い知らせようとするところがある。
魏無羨は犬に噛まれて怖いと逃げるようになったが、薛洋が噛まれていたら「悪友」で自らが言っていたことわざ通り「薛洋が手を出せば、鶏や犬さえ残らない」の方向へとたどったのだろう。そもそも魏無羨は生まれた時から愛情深いであろう両親に育まれていたが、薛洋はぶたれるような親の元で育ち、経験したものが異なっている。
薛洋の魅力と母性
そんな極端な思考ゆえ怖くはあるが、悪友で比べるとなんとなくであるが一般的にはなぜか薛洋の方が評価が甘い気がする。個人的には宋嵐が最も悲惨な目に遭っていると思っているのだが。多分に主人公ふたりに直接的に絡んでいない、ということもあるだろうが、薛洋の魅力によるものもあろうかと思われる。
ひとつには、陰虎符を操るその才能はあるだろう。やはり魏無羨には並びたちはしないが、追従するその力量・有能さ・素質は群を抜いたものがある。
それなのに薛洋にはとりたてて野心というものがない。どこか息苦しい面もある仙門百家の中で、そういう何かに属してヘイコラしていない自由闊達さ、というのはどこか憧れる思いはある。
そして自分が欲しいものがわかっていない幼さ。
功利的な人間というのは、どこか現実的でみみっちく感じてしまうものだが、薛洋は自分が欲しいものがわかっておらず、自分でぶち壊しておいて、そのあとにそれが実は自分が求めていたもので、その大事なものは二度とは手に入らない、という言葉にし難いやるせなさがある。
薛洋は暁星塵に「誰が正義で誰が悪か、情けと恨みのどちらが大きいかなんて、他人に判断できるわけがないだろう?」と言っていたが、他人どころか自分自身でさえも(暁星塵に対して)情けと恨みのどちらが大きいか分からなかったというのが切ないのである。
そのぶち壊す癇癪にも似た思いは、どこか乳幼児の癇癪を思わせる。うまく欲しいものを言語化できず、気に入らなければこの世の終わりとばかり癇癪を起こし、破壊しようとする。
原作番外編で甘くないからと屋台を壊す薛洋の姿は、食べ物を口にして気に入らずテーブルの上をぶちまける乳児のようである。乳児ならばベビーチェアでバタバタする程度で済むが、若者にこれをされてはたまったものではない。
話はそれるが、このいきなり商人を脅かす場面、どこかで誰かがしていたような……と辿ってみれば、清河で金凌が夷陵老祖の絵を売っていた人に飛びかかっていた。その衣装も蘭陵金氏の金星雪浪……。暁星塵に諭されるよ?
けれど、乳児が暴れても寝顔は可愛いように、その乳児が大きくなったような姿(しかも美しく頭もイイ)というのはどこかその無心さが人の母性を刺激する。
薛洋の毎日の飴、に、何となく魏嬰の言っていた「乳をくれたら母親」という言葉が連想された。暁星塵との3年間は薛洋には至福の時間だっただろう。そして乳児というのは、母親に懐く反面、容赦もない。自分の思い通りにならず癇癪を起こした子供は、相手が堪忍して自分を慰撫してくれるとは思っても、その相手がまさか去って(死んで)しまうとは夢にも思ってもいない。
薛洋には、暁星塵が傀儡になるのは嬉しいことのようだった。他のドラマのある義子も、執着する義父に望んだのは自分だけを見てくれ自分の意のままになることで、この義子と薛洋がどこか重なって見えた。
そんな愛は歪んでいるし、相手の意思のない関係でいいのか?とも思うのだが、乳児が求める母親というのはそんな対象であった事を思い出すと、否定しきれない思いもしてくる。
そして薛洋の事をエグい存在と思いつつも、どこか気になってしまうのは、薛洋の切なる希求する気持ちに、母性本能のようなものが喚起されるのか、もしくは心の奥底に薛洋のような思いを埋めているからなのだろうか。
薛洋にとっての暁星塵
そうして薛洋は暁星塵に惹かれ、暁星塵の一番でないと気が済まないようになっていった。多分、気ままに破壊行動を繰り返して過ごしていた彼にとって初めての放したくない「執着」だったのではないだろうか。
阿箐も、もちろん暁星塵にとって大事な存在であったろうが、むしろ薛洋は夜狩を共にしている分、自分の方が近い、という自負があるので、阿箐は消さなければならない存在ではなかった。けれど、宋嵐は暁星塵にとって知己という一番の存在なので、薛洋には耐えがたい存在なのだろう。
薛洋は暁星塵を自分一人のものにしたかったのはないか。でも真っ当に接していても、もはや暁星塵の一番にはなれない。宋嵐と再会したら、どちらを取るかは決まっている。
もちろん「高潔な正義の徒というものはこの世にはない」と思い知らせたい思いもあったとは思うが、自分と同じく悪に染めたら、自分だけのものになる、とも考えた。
心惹かれる相手を自分一人のものにしたい、と言うと藍忘機を思い出さなくはない。けれど藍忘機は決してそうはせず、魏無羨の大切なものを守って、共にあろうとしている。一方、薛洋は暁星塵の大切にするものを恐ろしいまでに打ち砕いてしまった。
薛洋のような人には、関わる事自体が厄災となりうるのだ。相手を見ずに裁くのも禍となるが、みだりに人を助けるのも降災という事か・・・。
薛洋という人
作者が薛洋への思い入れが強いであろうことは「魔道祖師小説構成/カルテット・ソナタ形式⑥」でも触れたが、薛洋への言及で好きなのは、作者のラジオインタビューで司会者から「薛洋が死ぬ時に飴を握っていたのは、最後はついに暁星塵に感化されたのか?」と聞かれ、
「这个人谈不上感化吧,他肯定是不会被感化的。/ この人は感化というところまで考えが及ばない、彼はきっと感化されないに違いありません」と答えているところである。
その身も蓋もなさが、薛洋という人物を物語っておりリアルなのだ。
▼義城編シリーズ
▼薛洋たち義城編と構成
▼陳情令の義城編はじまり
▼薛洋初登場
▼吹替版薛洋
▼小説義城編
▼番外編『悪友』(収録は第4巻)
▼蝎王と趙敬
▼アニメでの薛洋
外部サイト
▼映画「生魂」「乱魄」、陳情令スペシャルドキュメンタリー、陳情少年 座学中
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▼「陳情令」タイファンミーティング、南京コンサートDay 1, Day
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▼吹替版のみならず中国語字幕も!
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▼英語版義城編
▼花粉症対策?
▼蓮根飴